日本に残る「土葬の風習」火葬で焼かれるのは、熱くて怖い、と村人は語る
出典:https://sou-sankotsu.com/2170-2/
人は誰もが死を迎えるからこそ、送り方が何より大切だ。かつて弔いの主流だった土葬を、今も守り続ける人たちは何を思い、その風習を継承しているのだろう。
近鉄奈良駅を降り、車に乗り換え市街地から田園地帯を抜けて東に走ること約1時間。剣豪として名高い柳生十兵衛ゆかりの地、柳生の里がある。さらにそこから川沿いに3kmほど南下すると、奈良市大保町(旧大保村)尾羽根という小さな村落に辿り着く。
ここは日本でほぼ最後の、「土葬」の風習を守る村落の一つだ。
8月上旬、本誌記者はこの尾羽根の地に足を運んだ。26戸しかない山あいの集落には、国道が敷かれてはいるが車通りや人影は一切ない。
見渡す限りの田んぼには青々とした稲穂が茂り、周囲からはひぐらしの鳴き声や小川のせせらぎが聞こえる。
そこにはいわば、日本の原風景が広がっていた。
「よう遠くから来たね。とりあえず中に入って、一服してください」
自宅から少し離れた国道まで来て、笑顔で出迎えてくれたのは、稲作農家を営む大窪子保治さん(61歳)だ。
自宅の裏にある農業用倉庫に記者を招き入れた大窪さんは、いまも細々と守られている土葬の風習について穏やかに話をしてくれた。
「この村に土葬文化が根付いたのは、平城京(現奈良市)があった奈良時代からちゃうかな。当時の都では、疫病が流行らないように埋葬が禁止されていたらしい。だから都から土葬を行う人たちがここにやってきたわけ。その証拠に、平城京の東端の丘陵地を越えると土葬された跡が山ほどあります。
ここで土葬が長く続けられたのは、寝棺の棺桶を使っているからかな。本来なら座棺を使うんですが、遺体の骨を折って無理やり納めないといけないので大変なんです」
大窪さんは、これまで何度も土葬に携わっている。穴掘りや棺づくり、埋葬など土葬を行うには作業が多いため地域の人たちの協力が欠かせない。
それから大窪さんは、「埋め墓に行きましょか」と言い、かつて集落で生きた人々が眠る墓地に案内してくれた。
土葬文化には、両墓制といって「参り墓」と「埋め墓」のふたつを設ける習わしがある。急勾配の山道を10分ほど歩くと、高台に参り墓が並んでいるのが見える。
普段の墓参は、この墓地で行われているという。その場所からは、本殿が県の指定文化財となっている八坂神社を北に見下ろせる。
この参り墓に参った後、墓地の脇にある急峻きわまりない小径を登ると、鬱蒼とした森の中に埋め墓があった。
そこは濃密な静寂に包まれていた。塔婆の群だけが等間隔に並んでおり、中には朽ちて倒れている塔婆もある。この下で、かつての村人たちは土に還っていった。大窪さんがポツリと漏らす。
「集落に人が少なくなっているので、もう土葬はできないかもしれません。棺桶などを作ってくれる大工も村から出て行ってしまいました。だから、母親は火葬することになっています。口では言わないけど、本当は土葬のほうがいいだろうね」
このあたりで最後に土葬が行われたのは3年前だという。当時の話を聞こうとすると、「村岸さんに話を聞くのがええ」と勧めてくれた。
「村岸さん」とは、尾羽根から山を一つ隔てた大柳生町で、東福寺という真言寺院を守っている住職だ。これまで尾羽根で行われてきた土葬で数多くの引導を渡している。
参照元:ヤフーニュース
日本に現存する「最後の土葬の村」…火葬で焼かれるのは、熱くて怖い、と村人は語る
参照元URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/833f71773a6b52fa77c044f5d3509fc5b9841664
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祖父母は土葬をした。父母は火葬だったが、父は土葬を望んでいた。コロナ禍で選択の余地が無く火葬した。
役所に死亡診断書を持って埋葬許可を得る段階ではどちらでも出来るが取った埋葬許可通りしかできないので土葬だと確認はされるだろう。
埋葬する墓地管理者からの同意が得られて、隣組の協力が無ければ、自分の家だけでは出来ない。
私の墓地は、大字の管理で昭和の終わり頃迄は土葬をしていたので許可は問題無い。近所の人に頼んで、手で1.8m️1.2mの深さ2mだったかの穴を掘って埋めるのだが、その時に土饅頭に節を抜いた竹を刺しておく。初七日まで毎朝水とご飯を持っていく。
生き返った時のための空気穴だったのだろうと思って見ていた。
もう出来ないだろうと思う。
知り合いの子供の頃の話
近所の同年代の子が亡くなって、その頃はもう土葬はしなくなっていたのに、不憫だからとその子の祖母が行政に強くお願いして土葬にした。数年後、埋めたあたりが自然災害でえぐられて棺が破損、むき出しになった。
中には水が溜まり、中途半端なホラー状態となった孫の棺を再度埋め戻さなくてはならなかったという。
火葬の方がいいな、と思ったエピソード。
地元の土に還る
そういうことでしょ、部外者が口を挟むもんではない
僕の生まれた地域は、どの集落も、ほとんどの家は浄土真宗でしたが、20年程前までは土葬でした。僕の父親も土葬になりました。何の違和感もありません。
道路の付替えや拡幅工事の際に、墓地を移動させたら「棺桶の箱を掻きむしった跡があった。あれは泉帰り(黄泉がえり)だろう」などと言う実しやかな話を時々聞きました。
予言者で(王様の)医師だったノストラダムスは、中世に疫病が蔓延した際、いくつか指示をしていますが、その中の一つに、土葬した死体を全部掘り起こして火葬する様にというものがあり、指示されたことをやっていたらおさまって行ったとのことです。中世の日本でも当時の医療と衛生のレベルもありますが、病気との戦いで、何人も兄弟がいても殆どは最後まで生きることができませんでした。衛生と言う側面からみれぱやはり火葬にすべきではないかと思います。
棺桶がまだ座棺の頃に
子供やった親父が墓場で遊んでいて、
風化した座棺の蓋の真上を踏み抜いてしまい、
座棺の中の遺骸とご対面となり、
親と墓の持ち主と墓守にトリプルで
叱られたって話を思い出したわ。
タイトル「最後の土葬の村」
記事読んでいくと「ほぼ最後」
あやふやな記事ですね
上げ足取るつもりはないですが…
私が毎年訪れている小さな離島の村は火葬場がないので土葬だそうです
日本には小さな離島が沢山有るので探せばまだまだ土葬は残ってると思います
大切なのは故人を思いやり見送る事だと思います
未だに土葬をするところが有るのですね。
亡くなった方にとっては、土葬のほうがいいのかも知れませんが、狭い日本では、火葬にするほうがいいのかな、とも思います。
自分がまだ学校にも通っていない幼少時、とても可愛がってくれた親戚のお姉ちゃんが若くして亡くなり火葬されたのを見て、「僕は死んでも焼かないでそのまま埋めて」とずっと母親に頼んでいたのを覚えている。記事にもあるように、焼かれたら熱くてそれが怖くてイヤだと思っていて、寝る時にも毎夜のように繰り返していた。
当時土葬を行われている場所があることも何となくだけど知っていて、そこで暮らしたいと親に言ったこともあったみたい。
今だにその恐怖は少し残っていて、もう何人かの友人を見送ったが、待ち時間は切なくて、お骨を上げる時に「熱くなかったか?」とはいつも思う。
明治27年生まれの祖父は、「ワシは土葬がええがのう」と言っていたが、既に昭和末期には田舎でも火葬が当たり前になっており望みは叶わなかった。今年5月には母のものが増えこの三十年余りで骨壷が4つ、次は自分の番となった。いつかは子供達がスイッチを推し、骨を拾うんだろうと思うが、想像すると何とも不思議な気がする。
私の島では火葬場ができる前まで土葬でした。
その前は風葬で子供の頃遠足で行った先でいつも友人たちと崖を降りて骸骨を見に行ってましたね。
今となっては考えられませんね。
でも危険だとか人の死とかそういうのを自然と身につけられた気がします。
火葬場を作るとき島で相当反対があったみたいなのでイヤイヤ火葬された人もいたんだろうなァと思います。本土に土葬が残ってるとは…と興味深く読みました
ウチの墓は20基ほどが敷地に並んでて、それとは別に石を積んだ古墳の様な墓もある。
土葬から火葬に移行したんだなという意識は、なぜ墓の形が違うのか父母に聞いた幼少期からある。
故人へ最後にしてあげる事ができるのが葬儀なら、土葬の手間は最期の感謝なんだろうな。
じっくり故人と向き合える最期の時間を濃密に感じる事は、確かに有意義だと思う。
祖母まで土葬でした。親族、隣組みんなで土をかけました。それから10年も経っていないですが、火葬しか出来なくなりました。そして隣組に頼まずに斎場で葬式をあげる人が増えました。祖父は焼かれるのは嫌だと言っていたのを子供の時ですが覚えています。
平成になるかならないかの頃の話です。
私の出身の村も30年ほど前までは土葬でした。死人が出ると五軒の組=結が采配を振るいました。墓ほりから葬儀の役割分担、宿といって組の家の三軒が精進料理を担当しました。それぞれの出費は記録して残されました。葬式があると三日間はそれにあたる為、勤め先は休むことになりました。若い人からこれらのせいでなかなか正社員になれないといった声が上がり、だんだん葬儀会館で行うようになり衛生上からも火葬となりました。墓ほりは結構きつくて櫛や髪の毛が出てくると大人でも腰が抜けるようだったと言います。村の結の一番大切な最後の勤めでした。
土葬のあと山ほどのお菓子が子供に振る舞われ、隣村からの子供もお参りして施しを受けていました。懐かしい思い出です。
昔は都内近郊でも樽の土葬でした。近代都市化に伴う墓地の整理事業で、土葬だった先祖代々の墓を一旦掘り上げて改めて火葬し、区画整理された墓地に再び埋葬し直しました。昭和50年代の頃の話です。
自分が小学校入学前(昭和40年代)は既に、自分が住んでいる地域も祖父母が住んでいる地域も火葬だったので、話で聞く土葬が逆に怖かった。
でも。
小学生になって(確か小学3年頃)火葬が物凄く怖くなった。
「火は熱い」とか「炉は暗い」など、いろんなことを学習したからかな。
あと、近所に斎場があって、火葬しているときの臭いも感じていたからかもしれない(当時は煙が上がっていた)。
それまでは平気で通っていた斎場も、なんか怖くなって。
で、今。
自分が亡くなったら間違いなく火葬になると思うけど、あまり抵抗は無い。
でも。
もし自分より先に子供がしんでしまったりして見送るときは、火葬は発狂するだろうな・・・
小さい頃すでに完全に火葬だったが 村の墓地の小屋に土葬の遺体を運ぶ駕籠があって墓地を走り回ると年寄りに「足を引っ張られる!」(土葬して出来た隙間に足を取られる)と怒られたっけ。
そして新しく墓を建立した際 土葬だった祖父(自分が生まれる数年前に亡くなった)の遺骨を掘り起こして納骨したのが50年ほど前だが 骨壺ではなく直にまくタイプなのでその後火葬して納骨した両親はとっくに土に却ってしまったが 未だに祖父の頭骨はしっかり健在である。
西洋は伝統的に土葬だった。立派な棺桶を埋める。大きな穴を掘る。ある程度の深さに埋める。古い墓は、棺桶が腐り、土の重みで陥没する。墓石が傾く。
江戸時代の初期まではは山の尾根に遺体を置き、軽く土や葉をかける程度の埋葬が多かった
墓ができて墓地ができたのは後期から
母の里は土葬でした。幼い頃お母ちゃん死んだら火葬にはしないでと言われたことがありました。あれから数十年。約束は守れませんでしたけど、里に散骨する事で約束は果たせたかなと思っています。恨まれてはいないと思います。あれから二度と出てきませんから。
京都では平安時代には風葬が行われていたそうです。
亡くなった人を洛外に運び野ざらしにして風葬にしていたとか。
嵐山の北にある化野、東山の鳥部野、船岡山の北西一帯の蓮台野(紫野)の3つの地区は京都三大風葬地と言われていたらしいです。
土葬か…うちの祖父が、結構前まではうちの村も土葬だったけど一時期とんでもない墓荒らしが出て金目のものはとって遺体はちゃんと戻さずにそこら辺にポイ。
山の中腹の墓場だから野生動物やって来て更に遺体がとんでもないことに…ってなって大騒ぎになってからは土葬辞めたって話してたな。
日本で最初に火葬したのが持統天皇で飛鳥時代。なのに今まで、しかも奈良で、土葬が続いてるなんてびっくり。
生まれ育った場所の価値観ってのはよっぽどの事がないと変わらないだろうね。
たしかに土葬は大変そうだ。
葬式も見送る側の区切りでもある。土葬はさらにその意味合いが濃いんですね。
「数少ない土葬の風習の残る村」と聞くと小野不由美さんの「屍鬼」を思い出す。
京都の田舎に暮らした時土葬だと知って驚いた、白の三角のあの衣装で遺体を土葬場所へ運ぶ。お墓は空っぽ。風習や男尊女卑もひどく、よそ者へ偏見、人が良さそうにしているけど近所も含めて色々異様だった
もし遺体に感覚があるのだとすれば、腐敗していくのも苦痛だと思うがな
なのに火葬だけ熱くて怖いなどというのは理解できない
土葬の文化が未だ残っていることに驚いた
火葬に慣れ親しんだ私は死んで虫に食われるのは嫌だなぁ…
しかし万有全てが土に還る。
その考え方は好きだなぁ
過疎化も含め、これも時代の流れなのかと思うと仕方ないのかもしれない。
土葬って土の中に埋めた後に臭いとか発生しないのかな。単純にそう思いました。
田舎の風習として残る分に良いと思います。
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