戦前戦時、警察や新聞、放送局に投書によって抗議をする「投書階級」と重なる現代の自粛警察
出典:https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200509/k10012423651000.html
戦前戦時の日本には、娯楽に対する検閲が存在した。内務省・逓信省の官吏や警察官などが、映画、レコード、舞台演劇、ラジオ放送、新聞書籍雑誌などのメディアに安寧秩序の紊乱(びんらん)や風俗壊乱のおそれがないかをチェックしていた。
当時、メディアは相当程度に普及していた。たとえばラジオの普及率は、日中戦争開戦前年の1936年度には21.4%だったところ、開戦後に普及が加速し、44年度には終戦前のピークである50.4%に達した。これは戦況のニュースに需要があったためでもあった。
ただ、国民のすべてが娯楽を享受していたわけではなかった。国民の中には、お笑い芸人が舞台で滑ったり転んだりすれば〝下らない〟と言い、子どもが映画出演者のギャグを真似れば〝けしからん〟と言い、流行歌を歌えば〝教育上悪い〟と目くじらを立てる人もいた。
そうした人の中には、居ても立ってもいられず、警察や新聞、放送局に投書によって抗議をする人があった。
「投書階級」と呼ばれた人たちである。当時の検閲担当者にとって、彼らの声は無視できないものがあり、しばしば抗議を受け、取り締まりが強化された。戦時中の検閲や統制に関しては、これまで政府や軍の暴力性・抑圧性が強調されてきたが、それらが消費者市民に由来する側面があったのである。
厳重に取り締まりを
舞い込む批判の投書 日本放送協会(現在のNHK)には、40年には3万6000通余りの投書が届いたという。投書階級にはサラリーマン、官公吏、教員、商業関係者などが多く含まれ、彼らは大正期以降に一定以上の教育の普及や都市化を前提として出現した新中間層に該当した。一方で、投書はインテリのすべきことではない、とも見なされていた。投書は利己的な主張にすぎないと見られていたのである。反面、娯楽を享受する大衆は投書とは無縁だった。
投書階級はこの両者の間に位置した。彼らは政治、経済、教育、社会風潮などに一家言を持ち、自身を大衆と同一視されたくないがために投書により意識の高さをアピールした。
これに対して内務省などの検閲官は、多くが大学を出て教養主義を身につけたインテリだった。彼らは欧米の芸術的な映画や演劇作品を模範とし、大衆には少しでも芸術味のある娯楽を与えて人格を向上させる必要があると考えていた。
投書階級が敏感だったトピックの一つに、子どもと娯楽の問題があった。娯楽の教育に及ぼす影響が懸念されたわけである。ここには、受動的な検閲官に対し、投書階級が取り締まり強化を求めていたという構図を見出すことができる。流行歌の事例を基に、両者の力関係を紹介する。
参照元:ヤフーニュース
まさに現代の自粛警察 戦時下の「投書階級」と重なる姿
参照元URL:https://news.yahoo.co.jp/articles/f8f5cae5663f13baa7dbb7f565ef86cc86999af1
【自粛警察】行き過ぎた自粛強要…通報され警察の取り締まり対象に…その結末は?(漫画)【法律系マンガ動画】
スポンサードリンク
人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
いつも応援有難うございます!
以前、コロナに対しパチンコ業界に対し猛烈な批判が出て、マスコミや自粛警察が出動する事態になった。しかし現在は、パチンコ業界は通常営業になり、その他は規制が継続されたり強化されている。
別にパチンコ業界を擁護する気はないが、こういった個人や世論による自粛強要の問題点は、科学的な根拠がなかったり規制に伴う補償問題など、だれも責任を取らないことだと思う。
身勝手な正義を振りかざす愚か者だと思う
例えば営業している飲食店をルールを守ってないと攻撃する、だが飲食店はお願いレベルで法にふれるようなことをしているわけではない
だが自粛警察がしていることは店に対しての業務妨害であり恫喝である
これらは全て「犯罪」だ
法を犯す犯罪なのだ
日本は法治国家である
個人の主義や個人の感情で人を裁いていけないことだ
この前のフジロックだろうと政府が自治体が認可してしていることだ
その事について主催者や関係者や演者を批判することは全くもって間違い
それがまかり通るなら日本は無政府国家と言う事になる
感情でしか物事を判断しない人が増えすぎ
法の下で判断すべきだ
自粛警察というともっともらしい聞こえがあるがテロリストとも相通ずる部分がある。どこの誰だかは覚られないように行動する。
以前、ある日赤い三角コーンが路上に置かれてコーンの上に紙で速度注意と書いてあった。スピード出す車がいるからなのだろう。これも一種の自粛警察の行為だが、そのコーンは道幅を狭め通行人には危険度が増すことになる。コーン設置が原因の事故には責任は取らないのだろう。
昔は大人の歌と子供の歌は、はっきりわけて考えられていた。子供は教科書に載っている文部省唱歌や子供向けの童謡を歌わなければならず、大人向けの流行歌を歌ってはダメだった。そういう考え方は昭和時代の戦後になってもしばらく続いていたが1970年代後半のピンクレディーが出て来て、これが最初は大人向けの流行歌だったはずだが予想外に低年齢の児童の間で流行ってしまい、このあたりから大人の歌と子供の歌の境目が曖昧になった。そして1980年代以降は「子供は大人の歌を歌ってはダメ!」ということはあまり言わなくなって行った。
流行に年代的な物もあるし、一部の人に支持されているものもある。
だから、親は子供の流行に敏感でないと、頭ごなしに起こる事も出来ない今の時代は親の苦労も大変と思います。
”クレヨンしんちゃん”も最初は人気もあったが一部反対する人もいた。
今では、”クレヨンしんちゃん”世代が親になり一緒に見ている。反対する人も居なくなった。
流行に敏感かどうかが、自粛警察になるかならないかの差になると思います。
どんな時代にでも自分の考えに背く行為を面白く無いとして文句を言う人はいるでしょう。
通常はこう言う時「おじいちゃん、今はそう言う時代なんだからね」とか「まぁまぁ、若い人が言う事も一理あるから。さあ、飲みたまえ」といってなだめすかされてオシマイなのだけど、この論調が世の「お上」と同一の流れだとチト面倒。
如何にも正論だと上から強く騒ぎ出して周囲まで同調してしまう。
つまり冷静な目が無くなってしまい、皆が流れに沿わない者を弾こうとする。更には粛清しようとする。
実際にその権利を持たない者が裁き始めると厄介だ。
今回の自粛警察だって店前にビラを貼りまくり叩きまくり。
更に質が悪いのが匿名。
俺は思います。
どんなに正論でも異論に意見するなら、何らかの名を示せと。
このままじゃ無差別テロと一緒です。
当時の日本人と現在の日本人は明らかに違っている。
当時は武士の時代の封建制が色濃く残っていて、また、軍国主義、富国強兵と、今と全く真逆の時代だ。
教育を受けた一部のインテリの意見が、庶民の生活にまで影響を与えてしまっていたが、現在は、教育水準とか生活環境とは関係なく、個人の「つぶやき」が世論に影響を与えるほどになってしまっていて、昔より危険になったと感じる。
一番危険だと感じるのは自粛警察のような、「正義」が暴走する事だ。
正義は一つじゃない。
人によって、生まれた環境や宗教、思想・信条等によって正義は違っている、と言う事を認めないと、間違いが起きる。
他人の事ははどうでもいい。自身が感染対策を完璧にしていれば感染はしない。食料等最低の買い物はマイカーで行ける範囲の行きつけの店に限定して必要なものをメモして最短時間で済ませ、他人との接触は可能な限り避けて過ごし公共交通機関は使わない。謂わば一人ロックダウンしていればウイルスに遭遇する機会も無くなる。
個人的には自粛警察は受け入れたくないが、一定数そのような方もいて、かつ、デジタル化がより一層進みタイムリーに時には鮮明な画像や動画までセットで訴えかけてくるこの現代を受け入れなくてはならないのかなと思う。そして拡散力や匿名性が高すぎて一個人では太刀打ちできないことを。
今、変化している情報を正しく理解し上手に付き合うことが一番大切なのかと思います。
「自粛警察戦時下の当初階級」
何も無理やりに戦時下をもってくる必要はないと思う。
人の危機に対する行動の一つととればよい話しでは。
勿論批判すべきというか、行き過ぎた行動には反対です。
自ら戒め、防衛するにはいろんな方法があるはずです。
押しつけがましいという、人に迷惑をかけるなとかは、自分勝手なことから始まっている。
要は自分勝手なものになっては、違った問題の発生をもたらすと考えないといけない。
何だろう、「階級」という言葉に惑わせれて、変な感じになった。
昔(戦前)
インテリ(教養人、知識層)←上流階級?
「投書階級」←中流階級?
大衆←一般庶民(下流は語弊ある?)
ってことか?
何か、この投書階級にしても今の自粛警察にしても、宙ぶらりんになっている自分たちの位置づけをはっきりさせたいという一種の承認欲求から来ているような気がするな、こじらせた構ってちゃんみたいな。
一億総中流から格差社会になってきたゆえの弊害も垣間見えるけど。
パチンコのような反社や半島の資金源となっている業界は批判されても仕方がない(そもそも違法行為)が中には批判されるべきでないケースもあるよね
オリンピックは大反対で高校野球はスルー
都民が他県に行くと大批判で県民が都内に通勤はスルー
マスゴミのダブルスタンダードを世論のように報道する姿勢が問題、報道ではなく主張だけどね
なんだろなぁ
戦時下ってのは上が命令して下が従ってるだけではなく
国民もそれに協力する形で動いて圧力をかけるのが普通である、って話で
コロナでその姿がよく見えるって話なんだよなぁ
これは日本の戦時中の話ですが
アフガン戦争の時、アメリカ国民のイスラム教徒に対する対応ははどうでした?
アメリカがソ連を敵として赤狩りやってた時はどうでした?
ナチスは一応民主主義で選ばれてるの知ってますか?
フランス革命で出来た政権が崩壊した理由は?ローマの暴動は?中国の文革は?
いっぱいありますねぇ
良く戦時中と似ていると言うメディアからの発信を見るが、決定的に違うのは、戦時中はメディアもそれを煽っていたと言うこと。自粛性は良い作用もあるし逆もある。その辺も明確にして議論してほしい。
安易に安直な自分だけの「正義」を振りかざすのは、脳がそれを求めているから。
快楽中枢を刺激してくれるからです。
正義を語るのは安くて効果的な娯楽です。
ただそれだけの話しです。
でも、そういう人は当然ですが、法哲学や政治哲学の正義論なんて知りません、
ロールズも、もしかしたらサンデルも知りません。
よって、戦前に投書階級に顔をしかめた教養層同様に、何だこの人たちはと、
ヤフーのコメント見て現代の教養層は感じることになります。
自己責任だろうが、何でも行政の責任にするような社会の風潮。
それを煽るマスゴミ。
阪神大震災経験者だが行政に噛みついていた連中思い出す。
行政が地震起こしたのか?
行政がコロナばらまいたのか?
感染者数減らないのは行政の責任なのか?
ほとんどは自己責任だ。行政に噛みつく風潮、情けない。
マスコミは何でもかんでも政府のせいにしても国民のせいにはしない。視聴者でありお客様だから。
コロナを広めているのは個人であり、誤った個人の行動を諌める自粛警察が出て来るのはやむを得ない。行きすぎたものにならなければ良いだけ。
筆者はオリンピック開催頃のお生まれのようですが、それ以前の昔のことを引き合いに出すのはあまりよろしくない。
テレビ以前のメディアは映像(動画)がほぼ存在しなかったからで、ニュース映像は映画館で上映される10分ほどの物だけ。それが全て。
そのわずかの時間ヤフーニュースのごとき各種ニュースが入っていたのだ。時間的に3h軍位のものが4~5種くらいでしたかね。
テレビが出現してからの社会人の物の見方はダイナミックに変わりました、
ここが分岐点なのです。
自分が存在していなかった時代の話は相当検証してからお話しください。
それに、新聞の投書欄に投書する人はかなり知識を持つエリートが多かったですよ。
ミーチャンハーちゃんには新聞投降なんて敷居が高すぎますわ。
ネットニュースになってから大きく様変わりしましたね。色々な意味でね。
前回のこういう宣言下の時、本物の警察がそれに近かった気がする。まあその頃は交通安全運動期間と被ったのもあるけど、ある高速のインターの出口に「不要不急の遠征、旅行等はお控え下さい」って警察のあの大きい掲示の付いた車で出してた。街中のパトカーも
交通安全の呼び掛けと、不要不急のって両方やってた。ここまでしても変わらんのよね。
コロナの感染対策としては個々人の行動の自粛が最も効果があるのでは?個人や世論が自粛を求めることが何が悪いのかな?戦前のことを事例として述べてるがナンセンスもいいとこだ。コロナ対策等での問題はマスコミの煽り、医師会の協力不足、法整備不足だ。医者看護師の強制動員、ベッドの開放等に強権発動できる法整備を国民も考えなければと思うぞ。
現代の自粛警察と戦時下の投書階級は一部重なると思うが環境が全く違う。現代はネット・SMSetc.が有るが戦時下はこのようなツールは無い。自粛警察だって嫌だと思えば自由に反論ができるのが現代。誰でも意見が言えるのだ。中国や北朝鮮のようにネットを閲覧・制限することが無ければなかなか国民全体をコントロール出来ない。なので大きな戦争はもう起こせないのが現代なのだ。いい事だと思う
投書階級の時代と違うのは同調圧力が効きづらい事。けしからんと自粛警察が通報しまくっても飲食店も客も午前様がたくさん。むしろ自粛警察格好悪という時代。この変化も重要ですね。医療崩壊している沖縄に観光旅行する人多数ですし、沖縄の観光業界も大歓迎。
マスコミは戦時下大好きだが、江戸時代も同じだった。
子供を町に放ち、誰が何を話しているか報告させた。
長屋の井戸端会議も、ある意味住民監視的な意味があった。
日本社会は、昔から何も変わってない。
現職警察官と話をしたことがあるのだけれど、「自粛警察」などというものがそもそも存在しないんですよ。「警察」は「警察」だけ。日本は法治国家。勝手なことは謹んでいただきたい。
生活に制限や我慢が起こると生じる。
自分は我慢してるのに他人がいい思いをしているのは許せない。気に食わないものに対して世論に訴える訳だ。
国はこうすると決めた。国民はより一層の我慢を。
日本は行動する自由ではなく、我慢する自由なんだ。
文化大革命化の中国と同じ密告社会になりつつある。
左翼による「ポリコレ」活動の一環であり、目指すは社会主義。
早く阻止しないと自由な言論ができなくなる。
当時は愛国婦人会とか国防婦人会とかが自粛警察を行っており、婦人会どうしの対立も凄かったらしい。小生は65歳だが、明治30年代生まれの祖父が、そいつらが「日本人なら贅沢はできない筈だ」とか言いまわってるので「よっしゃ、思いっきり派手な格好してやるでww」と派手な傾奇者姿で歩き回って顰蹙を買ってたらしい。
昔、城卓也の「骨まで愛して」が流行ったころ、学校で「♪傷つき汚れたぁあたしでも〜」と歌っていたところ、担任が「お前たち、”傷つき汚れた”の意味が解って歌っているのか」と文句を垂れた。
小学生の我々は「ううん、わかんない」と軽く流し、また歌いました。
歌ってそれでいいのだと思います。
好き勝手行動してた連中に文句言った事を揶揄して「自粛警察」と呼び
更にそれを戦時中の取り締まりと重ねるなんてそっち側の思想なだけ
過ぎた行動が悪ならどちらもその範疇で片方をつるし上げるのが平等ですか
コロナが収束せず拡散している中で人々の行動は抑制的であるべきでそのようにしている人はそうでなくふるまう人たちに反感を持つのは当然だ。中には所謂自粛警察のように行動人も出るだろう。だがそれを70年以上前の戦時中になぞらえるのは滑稽だ。大体これ書いてる人実体験ないでしょ。
「国内」カテゴリーの関連記事